悪魔の証明とは、主に「証明を行うことが極めて困難なこと」の意で使われます。
「宇宙人がいないことを証明しなさい」
のように、100%「無い」ことを証明しないといけないような時に使われます。
先日、志布志事件の元被告、永利さんが亡くなりました。
【読売新聞 「志布志事件元被告の永利さん死去」】
永利さんは、県議選の候補者らから現金を受け取ったとして在宅起訴されたが、2007年2月に鹿児島地裁でほかの11人とともに無罪判決を受け、確定した。元被告らが同年10月、同地裁で起こした国家賠償請求訴訟にも参加している。
このような冤罪を受けた人の人生を考えると本当に何ともいえない気持ちになります。
志布志事件のケースでは、国家権力である警察が自白の強要や長期勾留などを行うという、国家権力の暴走が問われています。
ドラマ「HERO」においても、第10話で同様のシーンが描かれています。
警察に冤罪をかけられた青年は自殺という道を選びます。キムタク扮する検事が、司法に属する人間の仕事は、時には人の命すら簡単に奪ってしまえることを叫びます。司法に属する人間の持つべき倫理観を問い正す内容だったと覚えています。
さて、これらのケースでは、司法が客観的合理的な判断から、最終的に無罪を言い渡し、被告人たちが損害賠償を求める動きになっていますが、お金では取り戻せない数々のものを失ってしまいました。彼らが何より取り戻したいのは人生の尊厳なのではないでしょうか。
「基本的人権の尊重」が定められているのは日本国憲法ですが、憲法はそもそも国家の主権を制限し、暴走を防ぐためのものです。しかし、それはマクロで制御するための仕組みであって、ミクロな現場・ミクロな期間では制することはできず、個人のモラルに主権の暴走抑止は委ねざるを得ません。
今後、裁判員制度が行われますが、人々は様々な事件に対してどのように判決を下すでしょうか?
身近な例として、近年増えている痴漢冤罪についてはどのように対応するでしょうか?
憲法中の「基本的人権の尊重」を意識して判断する人はそれほど多くないのではないでしょうか。個人が人生の中で積み上げてきたモラルこそが、裁判官がもつ判断基準です。
痴漢に関する事件は、フェミニズムの浸透から、女性が痴漢行為があった事実を公言するなら簡単に起訴が行われてしまいます。それに対し、100%の反証をすることはなかなか難しいのです。悪魔の証明にはまり込んでしまいます。
映画「それでもボクはやってない」では、主人公は罪を認めることを薦められます。それでも無実を主張し、散っていきます。その中で少数の理解者を得ますが、それは社会の総意ではありません。
世間の目は冷ややかであり、社会的に失ったものはあまりにも大きい。
映画を見ている人は無実だとわかりますが、その現場にいて裁判に携わる人にはその事実を捉える術はありません。
同様のことが、今もどこかで起こっていると考えられます。
それに対して、私たちはどのように対応・反応すべきでしょうか。
裁判員制度の開始は近づいています。
痴漢による精神的なダメージと、痴漢冤罪による社会的なダメージを秤にかけてみた時、どちらがより重いでしょうか。理性とモラルで判断することは難しい事件が、司法の場では度々あります。その際に、客観的に「合理的」だと思われる判断をするというのは、理に適ったことだと思います。
何をもって「合理的」とするかは人それぞれです。
合理的な論拠が無ければ、人を裁くに値する人ではありません。
ましてや、崩してしまった誰かの人生の重荷を受け止めて生きていくことなどは到底できないでしょう。
自分の中の「理」をしっかり持ちましょう。
理が無ければ、「合理」的なんて有りえないのですから。
それでは、今日はこの辺で。
「良心は、神がただひとりの裁判官として入れる神聖な神殿である。」
(ラムネー。フランスの宗教家)
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